いい話ではなくない?

Posted on September 12, 2019 20:28

いい話おじさんではないけど、いい話おじさんと言われても仕方がないなぁとは思っている。

「いい話だ」とよく言うようになって何だかんだ長いことになる。元々は先輩の口癖に影響されて言うようになったわけだが、今となっては私がいい話おじさんと呼ばれるまでになった1

私は「いい話だ」という言葉が自分にとって明らかに別の意味を持っているということは長らく考えていて、これまでになんとなく結論は出ていたが、折角なので何か書こうと思い立って今日これを書いている。

私が「いい話だ」と言うのは、基本的にはその対象のストーリーが私や話の主体にとってハッピーエンドだった場合だった。

ハッピーエンド、美しい話、そんなものに対して「いい話」というのは極めて率直な感想だ。疑いようがなく、若干「小学生並みの感想」として、そこにある。

ただ、上記に当てはまらない場合も「いい話だ」と言うことはあった。

それは本当になんの意味もなく発したこともあったかもしれないが、そうでなければ、その発言は恐らく、その話についてそれ以上考えるのをやめる為の、思考停止をする為の行為だったんじゃないかと思う。

考えるほど暗い側面が見えてくるような、どうしようもないような話はいくらでもある。そういった話について考えるのをやめるために「いい話だ」と言い切ってしまっているのではないだろうか。

そう考えるうちに、私が「いい話だ」といってその先の思考を遮ることは、一般的なハッピーエンドに対しても、ある種の保護機能を果たしているのではないかと考えるようになった。

ハッピーエンドも必ずしも心身に悪い影響を及ぼさない訳ではない。

それは単純に物語の捉え方2による問題である場合もあるし、特に物語が自分に近い世界の話であれば、羨望であったり自身への失望を感じて苦しくなることもあるんだろう。

自分が明らかにいい話のストーリーから除外されてしまっていたときの疎外感、自分には到底あり得ない美しさへの嫉妬、美しい物語と並行して存在する自分自身やその周りへのやるせない怒りなど。そんなロクでもない感情が顔を出す前に、「いい話だ」と言い切ってそれ以上何も考えないように言い聞かせているんじゃないだろうか。

そうだとすれば、少なくとも私の中では、「いい話だ」という発言がある種の仕方のない醜さに蓋をする為の機能を持っていたことになる。

勿論、全てがこのケースに当てはまるわけではないとも思っている。殆どの場合は、純粋にいい話を聞いて、その良さに浸る意味で「いい話」と言っているだろう。

それでも、私にとって、「いい話だ」と言うことが、その「いい話」から心身を守る役割を果たしていることも少なからずあるんだろう。もしかすると、本当に無自覚にそれをやっていることもあるかもしれない。そんな気付きが自分にとっての「いい話」を蝕んでいく感覚がある。

これを明確に言葉にしてしまった今、美しい、いい話に対して純粋な想いで「いい話だ」と言えるだろうか。

今後ともその感覚を疑わないでいられるだろうか。


  1. 不本意だが……

  2. わかりやすいところでは、所謂メリバなど